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  全国公立学校退職教頭会代議員会佐賀大会・九州ブロック大会記念講演

                                                    (平成30年5月16日)

「幕末の賢君 佐賀藩主 鍋島直正公の人づくり」(要約)

 

            公益財団法人鍋島報效会 徴古館 主任学芸員

 

 十代佐賀藩主鍋島直正公(1814~71)は、江戸時代後期において、藩政を充実させ、成長させたリーダーとして知られている。

 当時、藩士子弟の教育は、主に藩校弘道館を通じて進められが、直正公の頃は、必ずしも活発ではなかった。そこで、藩主十一年目に弘道館の移転を実現させて敷地を三倍に拡張。やがては学生数一千人クラスのマンモス校となった。

 こうした改革の背景には、佐賀藩士古賀穀堂の考えがある。側近として支えた穀堂は、重臣や藩の幹部たちは、小役人の見識で仕事をしており、たとえ豪傑才智の人材があっても自己防衛のために、妬むようになり、抜擢しないと批判をした。そして「学問を通じて古今の真理を理解するようになること」を提言した。

 直正公はこれを受け、弘道館に赴いて藩校トップにあたる頭人たちに、教育を通じて、真理を求め才能を磨く必要性を強調した。「自己の智徳を伸ばすためには、様々な論談を聞いてポイントには質問を加え、それに普段の読書と実際生活上で感じた疑問点などを総合して、工夫・研究を加えなければ、知識というものは増進しない」と、双方向に議論し、学習内容を自発的に深める体験を重んじた。アクティブラーニングと通じる学習を重視していたことがわかる。

 ところが当時の佐賀藩では、学齢期の子弟を教育し、いくらよい人材を学校が輩出しても、藩校卒業生の進路は原則としてひとつしかなかった。それは、全国で活躍する人材の育成ではなく、佐賀藩の役人になることだった。

 そこで直正公は重臣たちに「身分の上下や立場の違いを越えて一体となって融和し、憂いは偕に憂い、楽しみは偕に楽しみ、藩内が一丸となり、藩が永続する運営をしよう」と呼びかけた。こうした正面からの正論に加え、さらには藩士を個別に別荘に招待するなど細やかな配慮もみせた。こうして直正公は、学校を通じて個人の学力を高め、議論する風潮を醸成することで組織力を高め、九州の、いち外様大名の治める藩が全国屈指の雄藩となって飛躍する基盤を築き上げたのである。

 

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