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      全国公立学校退職教頭会代議員会秋田大会記念講演

                                                    (令和元年5月14日)

『藤田嗣治 映画「現代日本」と壁画《秋田の行事》』

 

               公益財団法人平野政吉美術財団学芸課長 H.K.氏

 平野政吉美術財団は、個人名の付いた美術財団ですが、平野は戦前、藤田と交流があり、多数の藤田作品を個人的に所蔵。 50年程前、財団法人化、公的なものにし、県立美術館で展示。
5年程前、新美術館完成と同時に移転、ホテル向かいの新美術館で展示。
 藤田は、秋田の平野政吉が藤田作品の個人コレクターと言う以外に、義理の兄は秋田出身という縁もあるし、映画撮影のため興味を持って秋田を訪れ、非常によく秋田を理解していた。映画撮影のため九州、四国、関西なども回り、日本人とは、日本人の営みとはを藤田なりに理解、その集大成が県立美術館展示の壁画「秋田の行事」である。
 では、藤田とはどういう画家か、藤田はレオナール藤田と名乗るが、元々は藤田嗣治と言い、明治19年、軍医で後に陸軍軍医総監になる父親の家に生まれ、昭和43年に82歳でその生涯を閉じる。家族的には二男であったので「つぐじ」と呼ばれていたが、画家として大成してからは「つぐはる」と名乗ったという。
藤田はその画業を5期に分けることができ、有名なのは第二期のフランス滞在期になろう。所謂「乳白色の裸婦像」という、透明感のある乳白色の下地に描いた美しい裸婦像で一躍脚光を浴びた時期である。      
本日は1933(S.8)年以降、基本的には日本に滞在し壁画を描くなどして活躍した第四期以降の話になる。昭和24年日本を去り渡仏するが、戦争中は戦争画も描きその絵は東京国立近代美術館に展示されている。藤田は長い人生で様々なテーマで、色々な画風で描いている。
 藤田が画家としてその地位を確立し脚光を浴びた作品の一つに「タペストリーの裸婦」がある(京都近代美術館所蔵の作品)。細密に描かれた花模様の布を背景に乳白色の若い裸婦が描かれている。乳白色の下地は藤田オリジナルの物で、色々な顔料、硫酸バリウム、炭酸カルシウム等を塗った最後に、科学調査分析で分かった事だがタルクを刷り込むことで作られていた。タルクと言うのはベビーパウダーの主成分でそれを刷り込んだ下地に、日本から持参した面相筆という細い筆で輪郭線を墨で描くという手法である。硫酸バリウムや炭酸カルシウムは溶き油に溶いて塗るため墨を弾いてしまうがタルクを塗る事で半油性になり、墨でも油絵具でも細い線でも描くことができる。これは西洋美術史にはなかった手法である。藤田はこれを浮世絵から着想したという。東洋風、浮世絵風の油絵の裸婦の誕生ということになろう。
しかし藤田はそれに飽き足らず、壁画にチャレンジする。藤田は非常に野心の強い画家で、「我こそは西洋美術史に名を残したい。」と。 1924年にはフランスにある国際日本人館のロビーに、大作であるが日本の障壁画のような金箔を自ら貼ってそれに乳白色の裸婦像・裸体を描いている。しかし藤田は、今度は画風を変えたいという事でフランスを離れ1933年4番目の奥様を連れ中南米を旅し日本に戻ってくる。
 帰国した藤田は二つの大きなことをする。壁画を描くという事と映画を作るということである。当時の日本は満州国建国など中国大陸で様々な軍事行動を起こし、遂には国際連盟を脱退すると言った時期である。帰ってきた藤田も色々な意味で大きな世界情勢に飲み込まれていくことになる。
 昭和8年に帰国した藤田であったが、昭和11年、妻のマドレーヌが急死する。その後、藤田は秋田の平野政吉と色々な事を構想する。その一つが秋田に美術館を建てよう、亡き妻マドレーヌの鎮魂のために、ということである。その美術館に飾る絵として、藤田は手元にあった大作「眠れる女」を自ら抱え込んで秋田入りする。この絵は藤田作品の第一号ともいうべき名品で、今は県立美術館に展示されているが、一か月ほど前までフランスのパリの文化会館で聞かれていた「藤田の没後50年の回顧展」に里帰りしていた。と言うのは、これはパリで描かれた作品だったのである。その他、木箱に入れられて送られてきたのは、「北平の兵士」「五人女」等で、これらがコレクションの核になっていくのである。更に藤田は、「美術館を建てるのであれば壁画を制作しましょう」と。フランスでも大作を描いてきた藤田であったが、壁画制作に当たって「記念碑的大作」を描きたいと。
 壁画「秋田の行事」は横20m50 cm、縦3m65cmある。5枚のカンバスに分かれているが、大体4m四方のカンバスが5枚並ぶことになる。平野は米蔵を改装してアトリエにしたという。これほどの大作を藤田は2週間という短期間で完成させた。構図等は東京にいる時から練り上げていたそうである。取材もかなり綿密にし、筆をおろしたら一気に描いていったという。これを展示したいという二人の構想した美術館は三十三間堂のような建物で、採光形式は当時ヨーロッパで見られるようになったガラス屋根にと計画。人工光が未だ開発されていない時期なのでガラス屋根を考えた。壁画は中央ホールの奥の部屋、南ホールに展示、今と違って鑑賞者は光の移ろいを感じながら屏風の前を行き交うように、等身大の人物群像の中に自分が入るようなそんな気持ちになりながら見ることを想定していた。
 さて、壁画「秋田の行事」、主題は秋田の全貌、秋田の全て、オール秋田である。お祭り、祝祭、日常、歴史、産業全てが描かれ、中ほどの橋を境に祝祭と日常がはっきりと分かれ、両面に左右対称性を意識しながら壁画の構図もとられている。季節季節が4場面に分かれ、絵巻物か屏風のような構図も併せ持つなど、西洋風と日本風の構図を重ねたような作品である。
 初めに一番右側、日吉神社の秋の山王祭である。この神社は平野の住む外町の総鎮守社であり、久保田城下では最大の祭りが描かれ、一番奥には当前町の置山、その前に踊りの舞台や出店、その間には人が密集して描かれ、ラッコの毛皮を首に巻いたマント姿の平野も。 次が春の祭り、太平山三吉神社の梵天奉納である。左奥には太平山、今は1月17日、春めいた頃に春になった事を寿ぐ意味で、梵天と言う神様の憑代を地区の男衆が地区の安全と商売繁盛を祈願し、一番奉納を競い合いながら本殿に奉納する祭りである。激しいぶつかり合いを臨場感たっぷりに描き、梵天も動きが分かるように日本画的に位置同時表現を用い、男衆の筋肉、動きの表現が非常にリアルで、祝祭にエネルギーが巧みに表現されている。
 真中は竿灯、一年の節目節目に行われる年中行事、災いを流す行事がその原型、夏には疲れていろんなことが滞る、これは体に悪い虫が付いた、地区に禍が付いたためでそれを合歓の木や柳の木の枝に提灯を一つ二つ下げ、地区を練り歩き悪い物や禍をそれに移し、川に流す行事、夏の役流しがその原型と言う。それにいろんなことが集合して今の形になったという。藤田は勢いよくエネルギッシュに描きたいという事で差し手が失敗して倒れる竿灯をリアルに描いている。ローソクの火が提灯に燃え移るところや倒れていく様子、それを支えるべく夥しい男衆の手、祝祭のエネルギーが感じられるように描いている。
 これが橋の欄干を境に静かな日常風景に移る。厳しい冬の日常、商人町を行き交う近郷近在の農家の方たち、米俵を載せた馬そり、雪室でままごと遊びの女の子たちそり遊びや凧を持つ男の子たち、これを藤田は実際に取材して描いたという。特に雪室の中の少女たちは角館で出会った子たちである。着物に関心のあった藤田は質感だけでなく、布が持つ時間も描いているという。着物は木綿か絹なのかまで描き分けている。こちらには産業も描かれ、農業、鉱業、林業、醸造業さらに歴史までが描かれている。日常と祝祭を分けるモチーフに使われた橋は香爐木橋と言い高清水丘陵にあるもので歴史を暗示しているのである。
 この壁画は、藤田制作の映画と関わりが深く、藤田自身紀行のタイトルに「国際映画撮影とモデル秋田~壁画 秋田の全貌~」と書いている。藤田は外務省主導の国際映画の監督に抜擢、世界に日本の姿「日本人の生活の活力は日常の出来事にある。美しさ・面白さ・多様さ・その瞬間の生命力に溢れ何でもない話の中に織り交ぜられている。こうしたことを通じて進歩的な近代国家の活動の中で脈々と続いている伝統的な日本の生活の人間的温かさ伝える」事を目的に撮影に挑む。その映画の一シーンが雪室の少女たちであった。仙北歌謡団の子たちを藤田は、我が国の伝統の美しさ、郷土の素朴さ、清く澄み通す心、雪のように純であり貴いものと書いている。この二人が映画でも主役であり郷土の素朴さ、清く澄み通すその心を壁画にも描きたいと。しかしこの映画が日の目を見る事はなかったのである。そして藤田は壁画の制作に打ち込んだのである。
 






藤田嗣治
 1886(明治19)年~1968(昭和43年)

東京都牛込区(現在の新宿区)で、陸軍軍医後に軍医総監となる藤田嗣章の次男として生まれる。
東京美術学校西洋画科を卒業後、1913(大正2)年、渡仏。パリでは、滑らかな乳白色の下地に、面相筆でよどみない輪郭線を描いた裸婦像で画風を確立し、高く評価された。1981(昭和6)年、パリを離れ、中南米を歴訪。この頃から、画風は豊かな色彩表現が主流となる。
1933(昭和8)年、日本に帰国。翌年から壁画を各地で制作する。戦時下は戦争画を描いた。敗戦後の1949(昭和24)年、日本を離れ、アメリカを経由して、翌年、パリへ戻る。フランス国籍を取得し、その後、カトリックの洗礼を受ける。晩年は子供と宗教画を多く描いた。ランスの礼拝堂を設計し、内部のフレスコ画も制作したl。
1968(昭和43)年、スイスのチューリヒで死去。

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